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おわりのつづき、のおわり
少々遅くなり申し訳御座いませんでしたが、「おわりのつづき」の公演が全日程終了致しました。

本番最終日からバラシ、打ち上げにかけてはそれまでにもまして慌ただしく過ぎて行き、気が付けばあっという間に、今日でした。
出演者様、スタッフ様、他関係者様、そしてご来場頂いた皆様、有難う御座いました。

 

今回はかつての作品の再演という、今までとは違う試みで、でも結局原型はさほどなくて、最終日まで試行錯誤し続けるいつもの公演でした。

ご覧になられた方はご存じの様に、劇中では「twitter」がエピソードの一つとして登場します。ですが初演当時はそんなものはまだなく、携帯電話の普及率すら今と比べればまだ低かった頃でした。たった10数年で世の仕組みは大きく様変わりし、その流れの中で、我々は一つ一つの作品を終わらせながら、次の作品を創っています。


カーテンコールのご挨拶の際、確か毎回、深沢座長が来年の事に少しだけ触れていましたが、もちろん今はほぼ何も決まっていません。果たして今回の公演から何が「続く」のか、それは団体としても楽しみな事であるとともに、もしも、今回足をお運び下さった皆様も楽しみにして頂けるなら、それ以上はありません。

重ね重ね、有難う御座いました。

それじゃあ、また明日。
カテゴリ:おわりのつづき | 17:40 | comments(5) | -
コメント
最後まで分からなかったこと。
〜I don'tmind,if you forget me.〜
なんで、サブタイトルが「たとえ私をわすれても、ドンマイ!」なのだろう?

「For get me not」と言うピアノ曲を弾いたことがあります。
何とも哀愁が漂う寂しい曲なんです。

でも、このサブタイトルは「あの舞台」と同じ、「また明日」と言うことを、巻き起こる騒動がおばあちゃんの形見分けを常に阻止していくかの如く、忘れたくない気持ちを阻止します。
騒動が収まった後の徹の振る舞いが「過去と現在のつながり」にお話を回帰させ、最後に愛が喪失の涙を流して、「また明日」になりますが、明日ここでそれを言うことはないのに。

あの家は、セットがばらされるように、明日には取り壊されてしまう。もう、あの家で「また明日」と言われることはもうないわけだから。

だから、このサブタイトルはポジティブにとらえるべきなのかネガティブにとらえるべきなのか。千秋楽のキャスト全員のテンションがおかしい中。一人悠然と主役をこなす航也さんに聞いてみたいですな。「また明日が言えない場所で、気にしないで!」と言えるのかどうか?

小林さんは初演の時どういう思いだったのでしょう。
| マーセナリー | 2015/11/27 8:49 AM |
レトロくんがイケメンになってますね、笑。

I don't mind,if you forget me.
直訳すれば、「もしもあなたが私を忘れても、私は気にしないよ」だけれど、、、
その言葉の裏には「たとえあなたが私を忘れても、私は忘れないよ、ずっと見守っているよ」というおばぁちゃんの想いが込められているように思いました。
また「きっと思い出してね、信じているよ」という気持ちも込められていたんじゃないかなと。
ヒロシや徹に遺した形見から、おばぁちゃんのそんな想いがより強く感じられました。

お芝居の解釈にどう捉える「べき」なんて正解はないと思っています。
観た人のその瞬間の感性次第。
だから面白い。
正解が何か悩む愛ちゃんやレイナにおばぁちゃんは正解は自分が決めるものなんだって教えてくれた。
お芝居の解釈も、人生も、こうする「べき」なんて正解はない。
自分がその瞬間感じたことが正解でいい。
自分の選んだ答えが正解と信じてあげよう。
レトロノートの舞台はいつも、油断するとつい忘れてしまう大切なことを思い出させてくれます。
おばぁちゃんが亡くなって、家がなくなってしまっても「また明日」おばぁちゃんの形見(想い)とそれぞれの人生は続いてく、、、

おわりのつづき
深くてシンプルなメッセージの込められた
素敵な作品だと思いました。
ありがとうございました。

初演時の頃の私に、この作品を観せてあげたかったなって思いました。

新しいものを創るには、時に古いものを壊さないといけない。創り上げたものをバラすのは寂しいけれど、そうして終わっては創ってがつづく。
舞台は人生と同じですね。
来年も楽しみにしてます。
| きくみ | 2015/11/27 7:35 PM |
>きくみさんへ
面白いほどに鏡の裏表、反対側からの考え方ですね。
自分は“元”カメラマン。被写体の、被写体を通して語りたいクライアントの「表現したいモノ」をキャッチすることが重要でした。
自分がどう思うかではなく、相手はどう考えているか?
相手の考えていることを自分はどう思うか?それをどのように表現するか?
常に主体に従属的です。理解しようとすることが重要なんです。
スポットライトを浴びる舞台の上だけではなく、フリーペーパーの読み捨てられてしまう写真にも、伝えたい「声」に耳を傾けたく日々過ごしておりまする。
「写真」って、「写っている人の思い出」だということが重要なのです。写真を撮影している自分は写真の反対側にいて、写っている人が写真を見て、撮影された状態を思い出す時にだけ、カメラマンの存在はあるんですよ。去りゆくものは“ある意味”カメラマンと同じ。思い出してもらえるときのみ存在する。

「なぜなのだろう?」自分にとっての第1歩です。
| マーセナリー | 2015/11/27 11:53 PM |
先のコメントはあくまで「観客側」から書いたものです。

マーセナリーさんの仰ることは仕事人としてのカメラマンの考え方かと推測します。
カメラマンに限らずクライアントのある仕事は相手の考えを理解しようとすることが重要だと考えています。どんな仕事にも必ず様々な形のクライアントが存在します。私も社会人ですから仕事をする上で、また人と関わる上では当たり前のことだと思っています。

ですが、芸術鑑賞は私にとって仕事ではありません。
もちろん創り手のメッセージにも興味はあり聞いてみたいことは沢山あります。しかし作品を見た側が何をどう感じるかは千差万別で、自由です。
たとえそれが創り手の込めたメッセージと異なったとしても、こう捉える「べき」という正解はないと思っています。
私は芸術として時々カメラを扱い写真を撮りますが、被写体の声、自分の伝えたいメッセージだけでなく、出来上がった写真を見てくれる相手の声にも耳を傾けたいと思っています。
その時の立ち場がどちら側にせよ、必ず相手が存在します。
どちらか一方の側に囚われず、広い視野を持っていたいと思っています。
以上。

あくまで私個人の考えですのでお気になさらず
人それぞれです。
| きくみ | 2015/11/28 2:21 AM |
コメント有難う御座います。

なるほど、色々な見方のあるものですね…。脚本家の小林が副題に込めた意味の、その正確なところは推し量るのみですが、個人的には響きは好きです。「あいどんとまいんどいふゆーふぉげっとみー」
敢えて、実も蓋もない書き方をしてしまうと、出演者の中の一個人としては、副題にそこまで思い入れてやってはいまはせんし、だからこそ、お二人の様にご覧になった方が思い巡らせて下さっているのを見ると、嬉しく思います。
| 前澤航也 | 2015/11/28 9:15 AM |
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